たった一人で開発した月面探査車が月行きのチケットを手に入れた方法

こんにちは、YAOKIレポーターの太一です!
これから、ゆいと一緒にYAOKIや月面開発に関する情報をお届けしていきます。よろしくお願いします!

今回は、ダイモンの中島がたった一人で開発した月面探査車「YAOKI」で、月行きのチケットをいかにして手に入れたのか。その経緯やエピソードをご紹介します。

(1)YouTubeにプロモーション動画を公開

現在のYAOKIの原型は、2019年4月に完成しました。完成してすぐに、月面を模した場所として伊豆大島の火山岩で囲まれた砂漠に行き、YAOKIが走行する様子を中島自身が撮影しました。そして、プロモーション動画を制作、YouTubeに公開したのです。

その動画がこちらです。

誕生したばかりのYAOKIが砂漠の上を動く様子

これを見て、僕はもう涙が出てしまいました。

宇宙が大好きな僕としては、「生命誕生の瞬間」、「なぜ私たちはここに生まれたのか」、「これからどこへ向かっていくのか」というように、深遠な問いを思い起こさずにはいられませんでした。壮大な宇宙と小さなYAOKIの対比、YAOKIが残す車輪の跡が印象的です。

ぜひ皆さんも、生まれたばかりのYAOKIが動く姿をご覧になってみてくださいね!

(2)NASAや関係各社にメールでアプローチ

さて、動画を公開した中島はその勢いで、NASAや米Astrobotic社、Intuitive Machines社等の月面輸送パートナー各社にメールを送りました。

YAOKIが完成したちょうどその頃、NASAから商業月面輸送サービス「CLPS:Commercial Lunar Payload Services」において月面への輸送を任されたAstrobotic社が、月面着陸機「ペレグリン」に搭載するペイロード(宇宙機に載せる搭載物)を募集していました。

そのようなタイミングにも恵まれ、メールを送った1~2週間後には、Astrobotic社から「ぜひペレグリンにYAOKIを載せてくれないか」という返信があり、同年8月頃には契約をする方向に話がまとまったのです。

(3)勢いのままに契約

このように、あまりにもとんとん拍子で話が進んだため、逆に中島の方が契約を躊躇してしまったほどだそうです(笑)。数千万円の契約ですからね。

少し考えたものの、当時53歳だった中島、「人生100年時代ならまだまだ折り返し地点。命が取られるわけでもない。まぁ、いいか。」と覚悟を決め、2019年9月、とうとう大きな挑戦の印を押します。

こうして、「月面探査車を開発し、月に送る」という中島の夢は、大きく動き出していきます。

共に月へ行くことになったYAOKIとペレグリン(画像提供:Astrobotic社)

(0)8年という開発期間

誕生してすぐにチャンスを掴み、歴史的な快挙に向けて突き進むYAOKIはラッキーだったのか?

そうではないと僕は考えています。

月面探査車「YAOKI」は、8年の歳月をかけて試行錯誤を繰り返し、今のかたちへと辿り着きました。100回以上の改良を経て、今のYAOKIがあるのです。Astrobotic社に認められたのも、YAOKIが失敗と改善を積み重ねた「本物」だったからです。

8年間、周りから「そんなの無理だ」と言われ続けても、決して諦めることなく夢を貫いてきた中島の信念が、今のYAOKIの勢いへと繋がっているのではないかと思います。大事なのは、1歩を踏み出した後に、数回、数十回の失敗を経験しても、諦めずに次の1歩を踏み出し続けることです。

YAOKIのように、一見ラッキーだと思われることの裏にも、数えきれないほどの挑戦があるのかもしれませんね。

まとめ

いかがでしたでしょうか。今回は、YAOKIが月に行くことに決まった経緯やエピソードを紹介しました。

「夢を信じること」、「努力をやめないこと」、そして「ここぞという時の勢いに乗ること」。

月面探査車「YAOKI」の挑戦は、僕たちの心を動かしてくれます。
ここからさらに面白くなっていくことでしょう!

執筆者プロフィール

太一YAOKIレポーター
宇宙飛行士を目指す大学院生。
微生物の特性を医療技術に役立てる研究をしている。夢は宇宙に行き、地球以外の生命と出逢うこと!

チャレンジ精神が旺盛で、色んなことに興味が湧くタイプ。目移りしやすいのと、あきらめが悪いのが玉に瑕。趣味は読書とピアノとランニング!何度転んでも立ち上がるYAOKIに憧れている。